スカイ・クロラと若者の心の奥底

スカイ・クロラ [DVD]
森博嗣原作、押井守監督の映画『スカイ・クロラ』に描かれる、思春期の姿のまま年をとらない「キルドレ」達は、大人たちが始めた「ショーとしての戦争」での戦闘機のパイロットです。

永遠に繰り返す退屈な日常から抜け出すため、彼らは空に向かいます。

「今、若い人たちに伝えたいことがある」との思いで作られたこの映画のパンフの中で、押井守は、こう語っています。

「この国には今、飢餓も、革命も、戦争もありません。衣食住に困らず、多くの人が天寿を全うするまで生きてゆける社会を、我々は手に入れました。

しかし、裏を返せば、それはとても辛いことなのではないか、と思うのです。

永遠にも似た生を生きなければならないという状況。

その中で次々に引き起こされる痛ましい事件。

親が子を殺し、子が親を殺す時代。

何の理由もなく、若者が自ら命を断つ時代。


物質的には豊かだけれど、今、この国に生きる人々の心の中には、荒涼とした精神的焦土が広がっているように思えてなりません。

ニートやフリーター、渋谷のセンター街で座り込む少女たち、親を殺した少年。

彼らを大人の目線で見下し、まるで病名のような名前を与えても、何の本質にも至りません。

今こそ、彼らの心の奥底から聞こえる声に耳を澄まし、何かを言ってあげるべきだと思うのです。」

心の奥底からの助けを呼ぶ叫びに私たちは耳をかたむけなければならなりません。

そしてその時に私たちはどういった返答をもっているのか。考えなければなりません。

ヴィトゲンシュタイン哲学の探求


Wikipediaより引用)

ヴィトゲンシュタインといえば、オーストリア出身の著名な哲学者です。

そんな彼の哲学をいくつかご紹介しましょう。

意味のある人生

どんな人生が、意味のある人生か。

ウィトゲンシュタインは、「意味のある人生」とは「幸福な人生」だと言います。
そう聞くと、「不幸な人は、生きる価値がないのか」と反発されるかもしれませんが、もちろんそれは誤解です。ウィトゲンシュタインが言いたかったのは、人生に大満足している幸せな人だけが、「私の人生は意味がある」と実感できる、ということです。

これをウィトゲンシュタインは、独特の文体で、こう言います。

「幸福な生は、それが唯一の正しい生であることを、自から正当化する。」
(『草稿』)

「幸福な人生」だけが、何の理由も証明もなしに、「意味のある人生」といえるのです。

もちろん、幸福な人生に意味があるからといって、本人が幸せだと感じれば何をやっていてもよい、ということではありません。偽りの幸福を追っていた人は、目的を誤っていたと知らされた時、無意味な人生だったと後悔します。

「本当に意味のある人生」とは、「本当の幸福に生きる人生」だけです。

生の問題の解決

「生の問題の解決を、ひとは問題の消滅によって気づく。」
(『論理哲学論考』)

「私の生きる意味は何でしょうか」という悩みには、いろいろな答えがなされます。

  • 「自分の能力を発揮することが、人生の意味ですよ」
  • 「社会に貢献するために、生きているのです」
  • 「生きる意味を探すのが、生きる意味です」
  • 「今まで生きてきたことは、立派なことです。あなたは、生きているだけで、意味があるんですよ」
  • 「あなたが"これだ"と選んだことが、あなたの生きる意味です。大事なのは選択です」

その他、もっともらしい解答は、幾つもあります。

聞いた時は、感動したり、いやされたりするかもしれません。
しかしそれらはすべて、時間がたつと、「でも本当に、こんなことをやっていて、意味があるのだろうか」という疑問が生じて、スタート地点に逆戻りです。根拠のないアドバイスだったからです。

「生きる意味は何か」という問いは、「あなたが生きる意味は○○です」と答えを聞いて、「何だ、そうだったのか」と解決する問題ではないのです。

本当の幸福に生かされて、「人間に生まれたのは、このためであったのか!」と、生命の大歓喜を味わった時、それまで胸にふさがっていた「生きることに意味などあるのか」という暗い心が吹き飛びます。

同時に「この幸せになるための人生だったのか」と、生きる意味も目的もハッキリしますから、もはや「生きる意味なんてあるのだろうか」と問う必要がなくなり、「問い」そのものがなくなってしまうのです。

「生きる意味は何か」という悩みは、「それは○○だ」と解答を知ることによってではなく、悩みそのものがなくなることによって、解決されます。

これをウィトゲンシュタインは、このように述べているのです。

生の問題の解決を、ひとは問題の消滅によって気づく。
(『論理哲学論考』)

「幸福に生きよ!」

ウィトゲンシュタインによれば、人生の目的は幸福になって満足することであり、人生の目的を果たした人とは、本当の幸福になって大満足した人です。

「幸福な人は現に存在することの目的を満たしている、とドストエフスキーが語る限り、彼は正しいのである。あるいは、生(きること)のほかにはもはや目的を必要としない人、即ち満足している人は、現に存在することの目的を満たしている、と語ってもよいであろう。」(『草稿』)

「生きる意味」も「人生の目的」も、「本当の幸福になること」です。「それが答えなの?」と思うかもしれません。しかしウィトゲンシュタインは、「実はこれら全てが或る意味で深い秘密に満ちているのだ!」と言っています。

この謎を言葉で説明するのは、困難を極めます。言語の限界を知り尽くしていたウィトゲンシュタインは、結局、こう書くしかありませんでした。

「幸福に生きよ!、ということより以上は語りえないと思われる。」
(『草稿』)

「幸福に生きよ!」

――この先は、ウィトゲンシュタインが言うとおり、哲学を超える問題です。

論理哲学論考 (岩波文庫)

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ウィトゲンシュタイン入門 (ちくま新書)

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ウディ・アレンの”スターダスト・メモリー”な人生


Wikipediaより引用)

ウディ・アレンといえば、
映画「アニー・ホール」で、アカデミー賞監督賞、最優秀作品賞を受賞したことを初め、同賞最多の21回ものノミネートを記録している、アメリカを代表する映画監督です。

1935年生まれ、現在75歳です。

そんな彼の興味深いインタビューの一部(原文は英語)を、以下紹介します。




―――あなたは、人生の意味を見つけましたか?

「いいや。問題なのは、年を取るにつれて状況は悪くなるということだよ。
物事は、だんだんと憂鬱になるばかりだ。
若いうちも憂鬱だが、年を取ってからの憂鬱さは、一層ひどい。」

―――でもあなたは、毎年新しい映画を制作し、素晴らしい奥さんと子供があり、すべてがうまくいっているように見えます。
あなたにとって人生は良好だったのではありませんか?

「まあ、生きとし生けるものすべてが、絶滅に向かって進んでいるシナリオの中では、ある者は他より幸運だとか、ある者はひどい人生だとか、ある者はましな人生を送っているとか言えると思う。僕は、幸運な方だね


けれど、結局はスターダスト・メモリー(本人制作の映画)の最初の場面のようなもの。

すべての電車は、同じ廃品置き場に行く。だから、哀れなホームレスの男はひどい人生で、僕はずっとましな人生だが、結局のところ、彼も消えて無くなるし、僕も消え去る、君も消え去る、地球も消滅し、すべての星々も消滅し、最後に残るのは絶対的な無です。

日々のどたばたや、ひっきりなしに鳴る電話や我々が言う戯言などすべては消滅します。」

―――ということは、あなたは幸福だったことはないと思っているのですか?

「つまり、人生には、楽しみなんてほとんどないということだ。

例えば、仮に君と僕が強制収容所に一緒に入っているとしよう。
僕らはどこかでタバコを見つけて、1分か2分の楽しみを味わうために何かの物陰に隠れることもあるだろう。


しかし、すべての物事はそんなものなんだよ。
結局のところ、君のひどい状況は変わらないし、僕の状況もそう。

人生はとても悲劇的で、意味がなく、残忍なものなのさ。


映画監督として、大成功を収めたウディ・アレンは、自分の人生を

「幸運な方だった」と評しています。

しかし、「人生には、楽しみなんてほとんどない」とも。

最後には「日々のどたばたや、ひっきりなしに鳴る電話や我々が言う戯言など、すべて消滅します」と語っています。


今日か、明日にもそういう日が例外なくやってくると知ったウディ・アレンの目には、人生に本当の喜びは、もはや見出せなかったのでしょう。

死をもってしても崩れぬ幸福とは何か、よくよく私たちは考えねばなりません。

夏目漱石の創作人生、その実感とは


Wikipediaより引用)
明治維新前夜の年・慶応3年、漱石(本名・金之助)は、江戸に生まれました。

大学卒業後、26歳で教師になりましたが、「これは自分の本領ではない」との思いが去りませんでした。

「私はこの世に生れた以上何かしなければならん、といって何をして好いか少しも見当が付かない」


と、後に講演(『私の個人主義』)で、当時の心境を語っています。

29歳で結婚、英語研究のため、4年後には文部省の留学生として単身、英国に渡りました。しかし、留学費の不足と成果への圧迫感で神経症に陥ってしまいます。

帰国した彼を待っていたのは、苦しい生活でした。留学中、彼の妻子の面倒を見ていた親戚が失職し、家族は夫の着古しを縫い直して身にまとうほど、貧しく暮らしていたのです。

一高(東大教養学部の前身)と東京帝国大学に講師として迎えられましたが、生活のため、授業に追い立てられ、したい研究もできません。さらに、兄や縁を切ったはずの養父までが、「洋行帰りなら金があるはず」と思い込み、入れ替わり立ち替わり、金の無心にやってくるのでした。


「不愉快だから、どうかして好い心持ちになりたい」


句作を通じて知り合った高浜虚子の勧めに従い、漱石は37歳で初めて小説を著します。これが吾輩は猫であるでした。

句誌『ホトトギス』に連載されるや、爆発的な人気を博します。

小説に生きがいを見いだした漱石は、40歳で教職を辞し、朝日新聞社に入社します。連載のタイトルが虞美人草と予告されると、「虞美人草浴衣」が売り出され、新聞の販売員が、「漱石のぐびじんそ〜う!」と言って売り歩くほど、注目を集めました。

以来、三四郎』『それから』など、次々と小説を発表していきます。

漱石はやはり、苦しんでいました。子だくさんの彼の暮らしは、はたが思うほど楽ではありませんでした。


「自活の計に追われる動物として、生を営む一点から見た人間は、まさにこの相撲のごとく苦しいものである」


と、随筆『思い出す事など』に記しています。

本当の苦悶はしかし、もっと深いところにありました。45歳で書いた小説『行人』に、その胸中がうかがえます。

『自分のしている事が、自分の目的になっていない程苦しい事はない』

と兄さんは云います。


『目的でなくっても方便になれば好いじゃないか』と私が云います。


『それは結構である。ある目的があればこそ、方便が定められるのだから』

と兄さんが答えます。」

「兄さんは落ち付いて寐ていられないから起きると云います。起きると、ただ起きていられないから歩くと云います。歩くとただ歩いていられないから走ると云います。既に走け出した以上、何処まで行っても止まれないと云います」


随筆硝子戸の中に、


「今迄書いた事が全く無意味のように思われ出した」


とあるように、創作も生きる目的ではなく、目的が分からないから手段にさえならぬと感じ、苦しんでいたのでしょう。

漱石は、多くの弟子に囲まれ、「則天去私」を口にするようになっても、理想と懸け離れた自己を自覚せずにおれませんでした。

晩年、ある禅僧への手紙に、

「私は50(数え年)になってはじめて道に志す事に気のついた愚物です。その道がいつ手に入るだろうと考えると、大変な距離があるように思われてびっくりしています」


と告白しています。


大正5年、持病の胃潰瘍を押して、友人の結婚披露宴に出た漱石は、翌日から死の床に就きました。

いよいよ臨終となった時、寝間着の胸をはだけ、

「ここに水をかけてくれ!死ぬと困るから……」

と叫んで意識を失い、そのまま息を引き取っています。享年49歳。

執筆中の『明暗』は、未完となりました。


英国留学中に妻にしたためた言葉、

「人間は生きて苦しむ為めの動物かも知れない」

は、生涯を通じての実感だったのでしょう。

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夏目漱石は「自分がない」空虚な状態からどう脱したのか?――「自己本位」の発見 | 現代人に突きつけられた「うつ」というメッセージを読み解く | ダイヤモンド・オンライン 夏目漱石は「自分がない」空虚な状態からどう脱したのか?――「自己本位」の発見 | 現代人に突きつけられた「うつ」というメッセージを読み解く | ダイヤモンド・オンライン

行人 (新潮文庫)

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吾輩は猫である (ワイド版岩波文庫 (215))

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三四郎 (新潮文庫)

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名誉欲で汚れた科学 〜ワトソンの二重らせん〜

権謀多き政財界に比べ、科学の世界には、清潔なイメージがあります。しかし、遺伝子構造の解明でノーベル賞を受けたワトソンは、実際は違うと証言しています。


Wikipediaより引用)

1928年、ワトソンは、アメリカに生まれました。成績優秀で、15歳でシカゴ大学に入った彼は、生物学の可能性を示唆した『生命とは何か?』を読み、胸躍らせました。

どんな物質が遺伝情報を持つのか分からなかった時代に、

「遺伝子の構造を明らかにすれば、偉業となる。オレがそれを、解明するのだ」

と、大学1年で決意します。

22歳で博士号を取得。遺伝のカギはDNAにあると予想した彼は、イギリスの研究所に移りました。そこで、同じくDNAに着目していたクリックと出会い、意気投合。研究熱は一層高まり、特にワトソンは、解明できた暁に、科学誌にどう発表するかまで思い描いていました。


イギリスでのDNA研究は当時、生物物理学者のウィルキンズの独壇場でした。小ぢんまりとした英国学会では、大抵が知己同士。その知り合いの永年の研究に手を着ければ、非難は免れません。しかし、2人はひそかに研究を開始します。

ワトソンは書いています。

「ある考えを危険をおかして実行してみようともしない、鳴かず飛ばずの大学教授で終わるより、有名になった自分を想像したほうが、楽しいに決まっている」

ワトソンらのDNAの構造解明は、正確なX線写真があれば、早まるはずでした。しかし、写真はウィルキンズの研究室のもの。しかも、撮影技術に優れた彼の共同研究者・F嬢は、自分を助手扱いするウィルキンズに腹を立て、彼にさえ、自分の撮った写真を見せなくなっていました。彼女も、ウィルキンズを出し抜こうとしているらしいのでした。

知人でもないワトソンらに見せるはずもなく、2人は鮮明な写真なしで、DNAの分子模型を考え始めます。数ヵ月後、模型を作り上げ、意気揚々と周囲に見せましたが、F嬢が自分のデータと合わないと指摘。

模型は失敗でした。


無断で研究を始めた揚げ句、的外れな結果を出したと知った研究所の所長は、2人にあきらめるよう、通告します。しかしワトソンらは、科学史に輝く発見を、みすみす他人に譲る気にはなれませんでした。

2人は、ほかの研究に没頭しているふりをして、考え続けます。ウィルキンズに一度は渡したDNAの研究道具も、「ウィルスの研究に必要だから」と、うそをついて返してもらいました。会食する際には、わざとDNAの話題を外したりもしました。

翌秋、米国の学者がDNAのなぞを解いた、との情報が入ります。地団駄踏んだワトソンでしたが、学友だったこの学者の息子から、いち早く論文を奪い見た時、その間違いに気づきました。

「チャンスはまだある!」

ワトソンはある日、ウィルキンズと仲の悪いF嬢と衝突します。するとウィルキンズは、ワトソンを自分の理解者と感じ、彼女のX線写真を"盗み撮りしていた"秘密を打ち明け、それを見せてくれたのです。


写真を見た瞬間、彼の心臓の鼓動は高まりました。それは、"らせん構造"からしか生じない写真だったからです。

では、どんならせん構造なのか。それさえ解けば、自分たちが生命の秘密を解いたことになるのだ!数日間、ワトソンとクリックは、模型の部品をいじり回し、データと合う形を探し続けました。


ある朝、ワトソンの脳裏に、答えが稲妻のごとくひらめきます。早速、模型を組み立てました。2本の鎖がらせん状に絡まり合った、その形は非常に美しく、クリックも、模型が正しいことを認めました。2人はとうとう、生命の秘密を見つけたのです。急いで論文を書き上げ、タイプを頼みました。

「生物学史上で最も画期的な発見の一翼を担うことになる」

と言葉を添えて。

ワトソンらは1953年、発表した論文に、ワトソン、クリックの順で名前を掲載しました。順番は、コインを投げて決めたといいます。

9年後、2人がノーベル生理・医学賞を受賞した時、ワトソンは、34歳でした。

6年後、彼は発見までのいきさつを暴露した『二重らせん』を出版します。科学者たちが周囲を欺いて情報を盗み見たり、ライバルに成果を隠したりした姑息な手段を、生々しく記したこの本は、賛否両論を巻き起こしました。

「科学のイメージを壊した」

「科学者だって人間だ。その神話を崩した画期的な書だ」

よくも悪くも、世界的なベストセラーとなったのでした。

「(自分たちだけが)ふう変わりな例外とは信じられない」


とワトソンが記したとおり、科学界にも、名誉欲が渦巻いているのです。


あまりに若くして、歴史的な仕事をしたワトソンは、その後どう過ごしたのでしょうか。

「あれほどの論文は、めったに書けるはずもなく、つらかった」

と漏らし、後続の研究者を育てることに主力を注いだといわれています。

二重らせん (講談社文庫)

二重らせん (講談社文庫)

それはまるで夢のように…

世界の三大文学者にも数えられるというシェークスピアに、こんな言葉があります。




私たちは夢と同じ材料でできていて、私たちのささやかな一生は 眠りで仕上げられる
(『あらし』)

アインシュタインの弟子であり、相対性理論量子論の両方を研究した、デビッド・ボームの「ホログラフィー宇宙モデル」では、



「私も世界も夢のようだ」



ということを、科学的に論じて多くの科学者に影響を与え続けています。




マトリックス リローデッド [DVD]

映画『マトリックス』も、人間の脳に信号を与えて、


現実とまるで変わらない夢を見続けさせる、

というシステムが描かれています。



「儚い(はかない)」という漢字は「人は夢のよう」と書きます。


秀吉の辞世の句も「夢のまた夢」でしたが、


人生は、ふりかえってみれば、夢のよう。

長いようで、覚めてしまえば一瞬。


その夢のような人生、いったいボクたちは何をなすべきか。

とても大事な問題です。


夏の夜の夢・あらし (新潮文庫)

夏の夜の夢・あらし (新潮文庫)

断片と全体

断片と全体

自由という刑罰

ボクたちはみな、自由であるが故に、


自分がどこに向かって生きるか


という、人生最大の問題に自己責任で取り組まねばなりません。

これほどの重荷があるでしょうか。



Wikipediaより引用)


これをサルトルは、「人間は自由の刑に処せられている」と『実存主義とは何か』の中で表現しています。


「そのことを私は、人間は自由の刑に処せられていると表現したい。

刑に処せられているというのは、人間は自分自身をつくったのではないからであり、しかも一面において自由であるのは、ひとたび世界のなかに投げ出されたからには、人間は自分のなすこと一切について責任があるからである。」

「したがって実存主義者は、人間はなんのよりどころもなくなんの助けもなく、刻々に人間をつくりだすという刑罰に処せられているのだと考える。」

ボクたちは、誰しもが自由を求めて生きています。

しかし、

求めていた自由は果たして真の自由と言えるのでしょうか。

実存主義とは何か

実存主義とは何か