夏目漱石の創作人生、その実感とは


Wikipediaより引用)
明治維新前夜の年・慶応3年、漱石(本名・金之助)は、江戸に生まれました。

大学卒業後、26歳で教師になりましたが、「これは自分の本領ではない」との思いが去りませんでした。

「私はこの世に生れた以上何かしなければならん、といって何をして好いか少しも見当が付かない」


と、後に講演(『私の個人主義』)で、当時の心境を語っています。

29歳で結婚、英語研究のため、4年後には文部省の留学生として単身、英国に渡りました。しかし、留学費の不足と成果への圧迫感で神経症に陥ってしまいます。

帰国した彼を待っていたのは、苦しい生活でした。留学中、彼の妻子の面倒を見ていた親戚が失職し、家族は夫の着古しを縫い直して身にまとうほど、貧しく暮らしていたのです。

一高(東大教養学部の前身)と東京帝国大学に講師として迎えられましたが、生活のため、授業に追い立てられ、したい研究もできません。さらに、兄や縁を切ったはずの養父までが、「洋行帰りなら金があるはず」と思い込み、入れ替わり立ち替わり、金の無心にやってくるのでした。


「不愉快だから、どうかして好い心持ちになりたい」


句作を通じて知り合った高浜虚子の勧めに従い、漱石は37歳で初めて小説を著します。これが吾輩は猫であるでした。

句誌『ホトトギス』に連載されるや、爆発的な人気を博します。

小説に生きがいを見いだした漱石は、40歳で教職を辞し、朝日新聞社に入社します。連載のタイトルが虞美人草と予告されると、「虞美人草浴衣」が売り出され、新聞の販売員が、「漱石のぐびじんそ〜う!」と言って売り歩くほど、注目を集めました。

以来、三四郎』『それから』など、次々と小説を発表していきます。

漱石はやはり、苦しんでいました。子だくさんの彼の暮らしは、はたが思うほど楽ではありませんでした。


「自活の計に追われる動物として、生を営む一点から見た人間は、まさにこの相撲のごとく苦しいものである」


と、随筆『思い出す事など』に記しています。

本当の苦悶はしかし、もっと深いところにありました。45歳で書いた小説『行人』に、その胸中がうかがえます。

『自分のしている事が、自分の目的になっていない程苦しい事はない』

と兄さんは云います。


『目的でなくっても方便になれば好いじゃないか』と私が云います。


『それは結構である。ある目的があればこそ、方便が定められるのだから』

と兄さんが答えます。」

「兄さんは落ち付いて寐ていられないから起きると云います。起きると、ただ起きていられないから歩くと云います。歩くとただ歩いていられないから走ると云います。既に走け出した以上、何処まで行っても止まれないと云います」


随筆硝子戸の中に、


「今迄書いた事が全く無意味のように思われ出した」


とあるように、創作も生きる目的ではなく、目的が分からないから手段にさえならぬと感じ、苦しんでいたのでしょう。

漱石は、多くの弟子に囲まれ、「則天去私」を口にするようになっても、理想と懸け離れた自己を自覚せずにおれませんでした。

晩年、ある禅僧への手紙に、

「私は50(数え年)になってはじめて道に志す事に気のついた愚物です。その道がいつ手に入るだろうと考えると、大変な距離があるように思われてびっくりしています」


と告白しています。


大正5年、持病の胃潰瘍を押して、友人の結婚披露宴に出た漱石は、翌日から死の床に就きました。

いよいよ臨終となった時、寝間着の胸をはだけ、

「ここに水をかけてくれ!死ぬと困るから……」

と叫んで意識を失い、そのまま息を引き取っています。享年49歳。

執筆中の『明暗』は、未完となりました。


英国留学中に妻にしたためた言葉、

「人間は生きて苦しむ為めの動物かも知れない」

は、生涯を通じての実感だったのでしょう。

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